SNS自己開示の変遷と現代人のつながり意識の変化

厳選まとめ - SNS時代の自己開示バランスを見直し満足度を高める実践ヒント

  1. 週1回、自分のSNS投稿内容を5件見直す

    ネガティブな自己開示が多いと満足度低下につながるため[1][5]

  2. 月に一度、フォロー・友達リストを10%整理

    つながり疲れや承認欲求から距離を取り心地よい関係性だけ残せる[1]

  3. 7日間、投稿前に「本当に伝えたいか」自問してみる

    *衝動的な過剰シェア*が減り、本音と価値観の明確化につながる[3][4]

  4. *対面でしか話さないテーマ*を2つ決めて意識的に使い分け

    SNSでは得られない満足感やアイデンティティ強化が期待できる[3][4]

犬の物語と秘密の日記、始まりは10歳の頃

初めて自分で物語を書いてみた頃と、最初の日記帳を手に入れた時期が重なっていたこと、なんとなく覚えている。年齢はちょうど十歳そこそこで、あの頃はまだ何もかも新鮮だった気がする。家に小さな鍵付きのノートを持ち帰ったときのわくわく感…今思えば微笑ましいけど、その時は本当に特別なものを手に入れたようだった。

日記を書くという行為について、昔から「秘密」だとか「誰にも見せないもの」というイメージが強かった。だから家族への文句や、その日に感じたどうでもいいことまで、とりあえず全部書いていたような…。兄弟姉妹への愚痴も当然混ざっていたし、大人になった今読み返すと少し恥ずかしい。でもその瞬間だけは安全で大事な場所だった。

毎日のように何かしら書き込んでいた期間が、長いといえば長い。子供から大人へ変わる時期——例えば中学校入りたてのころとか、高校受験や卒業前後などにも日記帳がそばにあった気がする。正確な年数まではもう曖昧だけど、おそらく二十代後半くらいまで細々続けていたのではないだろうか。

音楽に夢中になった時期もあり、その頃の日記には好きだったバンドや歌詞っぽいものが無造作に書き連ねてあるページが結構残っている。本当かどうかわからないけど、将来のパートナーと出会った日のことまで、妙に詳細にメモしてたりして…まあ、内容には多少脚色や思い違いも混じっていると思う。それでもそういう断片的な記録のおかげで、「あの時こう考えていたんだ」とか、「こんな小さな出来事を大切に感じていたんだ」とふと思い出せる瞬間もある。

最近では個人の日常や思いつきを世界中どこへでも発信できる世の中になりつつあるけれど、自分だけしか知らない秘密を書き留める習慣というのも、それはそれで不思議な価値がある気がする。

歌詞で埋め尽くされたノート、思春期の叫びと家族への愚痴

大学の頃も、ずっと日記を続けていた。母親になった二十代前半――まあ、その時期にもやっぱり頼りにしていた気がする。何だかんだ言って、書くこと自体がちょっとした癒しみたいなものだったから。誰にも言えないことを全部、静かなノートに向かってつぶやいてる感じ?毎日じゃないけど、心配ごととか頭の中に渦巻くことを書き散らしてた。

クリスマスが近づくたび、新しい日記帳をリクエストしていたような覚えがある。ほぼ毎回もらえていたはず。十代の頃は適当なメモ帳とか使ってて、それも今でも家のどこかに全部残ってる。読み返すと昔の景色や感情がふいによみがえる時もあったりする。

現実の日々を書き留める作業と、空想で物語を綴る時間。その間を行ったり来たりする生活だったのかもしれない。なんとなくバランス取れてたというか、真実っぽい部分と嘘っぽい部分が入り混じって、自分にはぴったり合う方法だったような気がしなくもない。

書くことは自己表現でもあり、探求でもあった。不思議だけど、自分の気持ちは紙に書いてみて初めてわかったりすることも多かったと思う。「考えすぎ」って言われそうだけど、とにかく頭の中身がいっぱいだから書いてしまうし、別世界へ逃げ込むために新しい話を書く日もあった。

ちゃんとした結論なんてない。ただそんな風に過ごしてきた時間――今振り返れば、大切な何かだったようにも見えるけど、本当はよくわからないままなのかもしれないね。

Comparison Table:
テーマ内容
SNSの影響個人情報を過度に共有することで、プライバシーやメンタルヘルスに悪影響が出る可能性がある。
コミュニケーションの変化昔の手紙や直接的な交流が減り、SNSでのつながりが主流となっている。
自己表現の場としてのブログ自分自身を表現できる安心できる空間として機能している。
ポジティブなシェアリング暗い話題だけでなく、明るい出来事ももっと共有されるべきだと感じている。
距離を置くことの重要性SNSから少し距離を置いて、自分自身を見つめ直す時間が必要だと思う。

歌詞で埋め尽くされたノート、思春期の叫びと家族への愚痴

大学生活や子育て、セラピーとしての書き殴り

三十代に近づくにつれて、日記を書く習慣がなんとなく薄れていった気がする。まるでいつの間にか、手元から静かに消えてしまったみたいな感じ。そういえば、その頃はもう友人たちのほとんどがFacebookを使っていたような気もする。SNSでその日の出来事や気分をぽつりぽつり書いている人たちが多かったし、自分だけ取り残されているような…いや、別に急ぐ必要もなかったけれど。

少し抵抗していたものの、結局自分も流れに乗って登録した。その後は予想よりずっと早く“投稿”という行為に慣れてしまったと思う。何年か前だったかな、ブログまで始めてみたりして。それ以降は日記帳よりネットの方が居心地よく感じられる時期もあった。不思議だよね、書いている内容自体は昔とさほど変わらないのに。

フィクションを書こうとして迷走したこともあるし、自分探しをしていた時期にもブログには色々載せていた。ただ以前の日記とは違って、“独り言”ではなく誰かへ向けた発信になっていたような…。日常を書くだけなら紙はいらなくなった、とその頃思い込んでいた節すらある。

あっという間に数年経過して、新しいプラットフォーム――Mediumだったかな? それを使うようになった。感情や考えごと、不安や小さな達成感みたいなのまで書き出す場として役立った気がする。短編や詩もちょこちょこ載せてきたけど、不思議とエッセイっぽい文章の方が読まれる傾向が強かった印象だ。理由はよくわからない。

まあ今どきはだいたいそんな風潮じゃないかな、とふと思うこともある。本当にこれでいいのか時々迷うけれど、特別悪いとも限らないし…。続きはまた今度書くかもしれない。

日記からFacebookへ—自分語りが世界に溢れる時代の到来

なんだか最近は、みんな「見て」「聞いて」「これをシェアするよ」って感じばっかりで…。昔だったら、ノートに静かに自分の考えを書いてた人もいたんじゃないかな。そういえば、いつからかネットで知り合ったこともない人と関わる時間が増えてきた気がする。親しい友達や家族には言えないことでも、知らない誰かになら話せたりして…不思議だよね。

まあ、それは少し前からあったような願望――つまり誰かに認めてもらいたいとか、自分を知ってほしいっていう気持ちと関係してるのかもしれない。でも、最近のSNSだとかブログとか、なんとなくその願望が前より強く表れているような雰囲気もある。例えばフェイスブックで愚痴を書いたり、インスタグラムでちょっと自慢したり、それともブログで何か印象的なことを書こうとしてみたり。実際どれくらいの人がそうしてるのかわからないけど、多分かなり多いんじゃないかな。

そもそもどうしてこんなにも発信したくなるんだろう?自分でも答えが出せなくて、「ただ見てほしいだけ?」とも思うけど、本当のところはよくわからないまま。他人に伝えることで何となく安心できたりする瞬間もあるしね。でもそれって本当にリアルな繋がり以上に大切なのかな…そこはまだはっきりしない。

結局、有名じゃなくても誰かに存在を知ってもらいたい――そんな欲求が昔からずっとあっただけなのかもしれない。今なら、その相手には知り合いじゃなくて全然知らない人まで含まれてしまうというだけで。それ以上はまだ、ちゃんとは…。

日記からFacebookへ—自分語りが世界に溢れる時代の到来

見知らぬ人との繋がり、コメントや拍手で感じる承認欲求

インターネットがなかった時代、子どもの頃は自分の書くことに対して、何となく軽んじられていたような気がする。書くこと自体が、本当に意味あるものなのか、仕事と呼べるのか…そんな声が身近にあったと思う。大人になってからも、家族や友達のほとんどは自分の本を手に取ることもなく、応援されている感覚は薄かったかもしれない。でも、それについて深く考える暇もなく、まあ仕方ないかな、と。インターネットがあるから、と言えばそれで解決した気にもなる。

思い返せば、自分には見てもらいたい・聞いてもらいたいという思いがずっとあったようだ。ネットでブログを書けば誰かからコメントをもらえたり、エッセイには拍手(みたいな反応)が付いたり、本にもぽつぽつレビューが寄せられることがあるし、SNSでも数十人単位でフォローしてくれる人たちが現れたりして。そういう「声」や「反応」は昔なら考えづらかったけど、今では割と当たり前になってきた部分もある。

実際、そのおかげで少しだけ、自分の存在を認識してもらえているような気持ちになることもあった。ただ、それだけで全て満たされたとは限らないし、この感覚もちょっと曖昧だ。でもまあ、「観客」がいると感じる瞬間は確かに増えた気がする。全部じゃないけど…

SNS疲れと自己開示の限界、友達リスト整理という反動

作家というのは、たぶん多くの場合で誰もが自分の書いたものを見てもらいたいと思っている…ような気がする。最近になって、何となくネット上に色々と出しすぎてる気がしてきて、ちょっと落ち着いて考えてみることにした。「これ、本当に意味あるのか?」とか「誰のために書いてるつもりだったかな」とか、まあそういう類いの疑問を自分にぶつけてみたりするんだよね。SNSって本当に良いものなのか?倫理的とか道徳的とか、なんだか良さげな面だけじゃないのかもしれない…そんなふうにも思えたり。

いつからだったか、とにかく疲れてしまった感じ。心が沈むというか、やる気も出なくなるし、どちらかと言えばネガティブな印象ばっかり残る日が続いた。変わらなきゃいけないとまでは言えないけど、このままだと良くなさそうなので何となく方向転換した方がいいかなと。

まず最初に、「友達リスト」って呼ばれるものを見直してみた。数十人以上はいたと思うけど、その中で実際に関わりある人って案外少なくて…。だから思い切って大幅に整理したわけです。それからスマホからFacebookアプリを消してみた。これだけでも割とすっきりした感覚になるんだよね。不思議。

最近は投稿頻度も減ったし、自分自身について深く語ったりシェアしたりすることも控えるようになった。ただインスタグラムについては今のところ残してある。でもそれは個人的な使い方じゃなくて、一応仕事用―著者プロフィールとして動いてるビジネスアカウントで、それもFacebookページにつながっている形にはなっている。…まあ今後どうなるかわからないけれど、とりあえず今はそんな感じです。

SNS疲れと自己開示の限界、友達リスト整理という反動

ブログだけは自分の城、コントロールできる小さな居場所

自分のブログって、なんだかんだ言って小さな安心できる場所みたいなものかなと思う時がある。ペットの鶏とか犬とか、たまに散歩の写真も載せているけど、それ以外は結局、自分の本や物書きとしてのことが多い気がする。ああいう日々の記録を始めたのは、本を出す前だったし、今振り返ると、その選択には助けられているかもしれない。ネット上でシェアすることって、どこかで度を越してしまいやすいと言われたりもするし、実際そう感じたことも何度かあった気がする。あまりにも個人的なことを書きすぎてしまう人を見ると、「そこまで…?」とちょっと戸惑う瞬間も無くはない。

ところで、SNSってほんの数年で様変わりしてしまうことが珍しくないようだし、最初に期待されていた機能や雰囲気も割と簡単に消えてしまうみたいだ。だから、自分で管理できるスペースを用意しておくことは大事なのかな、とぼんやり思う日もある。ただ全部確信があるわけじゃなくて、「まぁ…今のところ自分には合っている」くらいだけど。それに、人によっては「今日食べたご飯」の写真ばっかり投稿する人もいて、不思議とそれに興味を持つ人もいるようだけど、自分自身は正直そこまで強く惹かれないというか。「誰向けなんだろう」と首を傾げる場面もちょこちょこ。

週一回くらいだったかな?定期的に記事を書いていた時期もあり、その習慣のおかげで緩やかにつながりができた感覚もある。でも、完璧なルールとか正解みたいなものは多分存在しなくて、それぞれ居心地いい形を探せばいいんじゃないかなぁとも感じる。他人から見ればどうでもよさそうな話題でも、自分には意味があったりするし、この辺り曖昧なのがネットらしいという気もしないでもない。

過剰シェアと黒歴史通知アプリ、十年前何を投稿してたっけ?

インターネットって、ここ最近は何をしてるかとか、どんな気持ちなのかとか、四六時中シェアするのが普通みたいになってきてるように思う。フェイスブックなんて特に、開いた瞬間にすぐ閉じたくなることがここ数年かなり増えた。なんとなく疲れるし、面白さももう感じなくなってしまったのかも。ただ同じような投稿ばっかりで。スマホのTimeHopアプリ? これがまた毎朝通知してきて、SNSから少し距離を置くべきだよとでも言いたげな感じになる日もある。

確か七〜八年前くらいだったかなぁ、自分でも覚えていないようなことをフェイスブックでつぶやいていたみたいで、「あれ?自分はあの時何考えてたんだろう」と首を傾げることも。一体どうして人にそんな些細なことまで話したかったんだろう、と今ではちょっと不思議にも思える。誰かが気にするとも限らないのにね。昔書いたものがふと浮上すると、大袈裟じゃなく恥ずかしい気持ちになったりする。それで結局スマホには二度とフェイスブック入れない方がいいかな…なんて考える日も出てくる。

トラウマみたいなものをシェアする場合、それを前向きに受け取ってくれる人がいるなら意味はあるんじゃないかな。ただ、それによって誰かが励まされたり共感したりできるなら、役立つ場面もあると思う。でも個人的には、暗い話題だけじゃなくて明るい出来事や良かった体験とかももうちょっと同じくらい共有されればいいのになあ、と感じたりしている。

SNS全体を見ると、この頃は以前より少し攻撃的という印象もあり、人によってはそれが苦手で離れたくなるケースも出てきているようだ。ポジティブだけでは語れないけど、一歩引いて眺め直す時間があっても良さそうだなと思うこともある。

過剰シェアと黒歴史通知アプリ、十年前何を投稿してたっけ?

ネガティブな渦巻きから距離を置く決意、新しい価値観探し

最近は、もうあんまり細かいことをSNSに載せる気になれなくなった。いつの間にか、あの新鮮さが消えてしまったみたいで。どちらかと言えば、何度も試してきたけど…もう飽きてしまった感じもある。

エッセイについても同じようなものかな。重たい話とか、自分の内側を探って書いてきたけど、それも一巡したというか、今は好きなことやワクワクすること、ちょっと嬉しくなる瞬間ばかりが頭に浮かぶ。でもそういう内容って、多くの人が興味を持つのかどうか…その辺は自信がないから、Mediumにも前より投稿する回数がずいぶん減った。

でも、本を書くときだけはどうしても止められない。本当に自分自身のためなんだろうね。それは変わらない。

オンラインで作家として存在感を保とうとは思うし、一応やれる範囲で発信も続けている。ただ、不思議と段々現実世界——手に触れたり嗅いだりできるもの——そっちへ心惹かれている気がする。

昔は新しいものやキラキラしたものほど面白く感じたけど、それも時間が経つと色褪せてくる…そんな傾向は誰にでもあることなのかな、とふと思う時がある。まあ全てじゃないけど、大体の場合、新しい流行や仕組みに置き換えられていくみたいだし。

日記とか直接話す機会って最近ほとんど見なくなった。その代わりにブログやSNSみたいなのが広まってきた気もする。でも、それすら永遠じゃないんだろうなぁ——よく考えれば、これも自然な流れなのかなと思ったり。

リアルなものへの回帰、本当に必要な繋がりってなんだろう

手紙とか絵葉書、最近はほとんど見かけなくなった気がする。そういえば、いつからかメールやメッセージのやり取りばかりになっていた。昔の知り合いも、今じゃネット上でしか繋がらない「友だち」っていう形になっていること、多くないだろうか。これが悪いことなのかどうかは、正直よく分からない。ただ、自分自身で「もういいかな」って感じた時に断ることもできるし、疲れた時には少し距離を置いてみたり、ペースをゆっくりにしてみるのもアリだと思う。実際、家の近くの人との関係を改めて考え直すタイミングになるかもしれないし。

時々でいいから、このインターネットというものからちょっと離れて、「自分が何を得て何を失っているんだろう?」と静かに問い直してみる価値はあるんじゃないかな、とふと思ったりもする。全部共有したところで、本当に必要なのか…なんて迷うこともあるしね。

現実味のある話かわからないけど、一応付け加えておこう。この文章はModern Womenというサイトで毎月出されるテーマに沿って書いた一つだった(確か今月のお題は「ネット上で自分をシェアすることについて考える」というものだったような)。他にも、「家事分担は最初から公平に」みたいな記事があった気がする。

ところで、サブスタックでも発信しているので、もし興味があれば覗いてみてもらえれば嬉しい。

Related to this topic:

Comments