冒頭のアクションヒント - SNS評価や支援活動の非対称性を可視化し、健全な社会的関係を築くヒント
- 週に1回、自分の支援行動やSNS投稿内容をリストアップする
見えない偏りや無意識の自己満足傾向に早めに気付けるから
- 月2回以上、支援先本人や関係者と直接対話し感想を聞く
一方的な善意発信が減り、現場との非対称性が和らぐため
- `いいね`数などSNS評価指標は全体活動量の10%未満だけ参照する
`賞賛`と実質的貢献度が比例しないことへの過度な影響を防げる
- `誰も見ていない小さな親切`を毎週1つ自分で記録してみる
`物語にならない連帯`こそ継続力となり承認欲求から距離が取れる
静かな違和感、善意が大声になる時
助けることがスペクタクルになる、そんな場面がある。いや、よくあるのかもしれない。善い行いを願う気持ちは否定しようがないし、それ自体は誰も咎められない。でも、方法や誰に向けてなのか、ああ…そこは一度立ち止まって考える価値、やっぱりあるんじゃないかなとぼんやり思う。善意から始まったアクションにカメラが呼ばれて、賞賛とか表彰とか――まるでそれだけで儀式みたいに連なってゆく光景を目撃するとき。あれ? 地域社会もなんとなく感謝しているし、組織も評価されて支援した人まで称えられて…。それでもなお、不思議と胸の奥で微細な違和感がふっと湧き上がる瞬間というのは、どうにも消せなくて。「皮肉」とはちょっと違う、ごく静謐な不安みたいなもの。それともただの妄想だろうか? でも親切というものが強調されればされるほど、本当の「核」みたいな部分に逆に手が届きづらくなる気さえする。
長年、人道活動に関わってきた人物――そういう人たちへの認知には確かに意味はあると思う。その努力や影響力、それ自体は消せない事実として在るわけだから。でもね、その評価や知名度みたいなのが必要以上に膨れ上がったり、「受賞歴」の方ばっかり話題になってしまって、肝心の助けられた側の物語より大きな存在になっちゃった時……あー、一瞬何を書こうとしたか飛んだけど、いやつまりそういう状況には別種の問いを投げかけざるを得ない。不思議と、その人物自身ではなく、その周囲で盛り上げている仕組み自体へ関心が移ってしまう。なんとなくだけど。
どうして特定の支援だけ脚光を浴び続けていて、それ以外にはほぼ誰も目もくれない事例だって山ほど転がっているんだろう。「助け手」がいつしか「ヒーロー」として扱われ始める基準、それはいったい何によって決まるんだろうね。…考えていたら小腹すいたし、とりあえずまた後で続きを考えるよ。
長年、人道活動に関わってきた人物――そういう人たちへの認知には確かに意味はあると思う。その努力や影響力、それ自体は消せない事実として在るわけだから。でもね、その評価や知名度みたいなのが必要以上に膨れ上がったり、「受賞歴」の方ばっかり話題になってしまって、肝心の助けられた側の物語より大きな存在になっちゃった時……あー、一瞬何を書こうとしたか飛んだけど、いやつまりそういう状況には別種の問いを投げかけざるを得ない。不思議と、その人物自身ではなく、その周囲で盛り上げている仕組み自体へ関心が移ってしまう。なんとなくだけど。
どうして特定の支援だけ脚光を浴び続けていて、それ以外にはほぼ誰も目もくれない事例だって山ほど転がっているんだろう。「助け手」がいつしか「ヒーロー」として扱われ始める基準、それはいったい何によって決まるんだろうね。…考えていたら小腹すいたし、とりあえずまた後で続きを考えるよ。
助けることの舞台裏とSNSの影
援助の行為自体がパフォーマンスへと変わってしまう時、そこに何が生まれるんだろう。まあ、なんていうか……この疑問は別に怒りから出てきたものじゃなくて、どちらかというと、私たち自身が「思いやり」というものをどう感じ取るのか、その背後にある見えない力や仕組みみたいなものを知りたい気持ちから来ている。そう、本当は。ただ、その願いにはね、「与える側」と「受け取る側」両方の尊厳を守ることへの配慮も含まれているんじゃないかなと思ったわけ。ああ、それでいてもし仮に支援そのものがショーみたいになっちゃったら——つまり支援が見世物化することで——連帯感ってステージ上だけの出来事になっちゃう危険性もありそうだよね。つい余計なことまで考えてしまった。でも話を戻すと、こうした構図はしばしば見過ごされているようにも感じる。
# 演劇的利他主義
現代の人道主義的文化(大げさな言い方だけど)では、「善行」はただそれ自体で済むものではなくなってきたらしい。「誰かに見てもらうこと」がセットで求められる風潮、とでも言おうか…。えっと、多くの支援団体は活動規模とか誠意云々には関係なく、とにかく全部記録して発信せざるを得ない状況になってるんだよね。握手している写真とか感謝スピーチ映像とか証言ビデオ…なんでもネットに載せられている。でも裏側では、本当に終わりなく続く地味〜な作業や気遣いもある。それなのにSNSなどで流れてくるイメージはやっぱり選び抜かれた場面ばかりなんだ。不思議だけど。いや、それとも当然なのかな…。ともあれ、この傾向って特定グループだけじゃなく、「可視性」という倫理観全体までもが静かに変貌してきてる兆しかもしれない。
社会学者アーヴィング・ゴフマンによれば、人間同士のやり取りは一種のパフォーマンスになる場合が多いとのことだった。「表舞台」と「裏舞台」の概念——もう聞き飽きた人も多いかな? 表舞台では公的承認や評価を得ようとして振る舞い、逆に裏側ではもっと混沌としていて複雑で説明しづらかったりする仕事が進む。本当に不思議な二重構造だよね。そして今、人道支援活動でもこの「表舞台」の部分だけがますます前景化してきている印象を受けざるを得ない。もちろん僕自身も例外じゃない気もする。ほら、最近じゃ支援プロジェクトそのものさえ観衆向けプレゼンっぽく演出され始めたりするでしょう。その瞬間、不意打ちみたいだけど急激に演劇的リズムすら漂わせ始めたりする。そして気付けば、「外国から来た支援者」が主人公役として登場したり…奇妙と言えば奇妙。それともこれも今風なのかな。でもまた本題から離れそうなので、この辺で戻しますね。
# 演劇的利他主義
現代の人道主義的文化(大げさな言い方だけど)では、「善行」はただそれ自体で済むものではなくなってきたらしい。「誰かに見てもらうこと」がセットで求められる風潮、とでも言おうか…。えっと、多くの支援団体は活動規模とか誠意云々には関係なく、とにかく全部記録して発信せざるを得ない状況になってるんだよね。握手している写真とか感謝スピーチ映像とか証言ビデオ…なんでもネットに載せられている。でも裏側では、本当に終わりなく続く地味〜な作業や気遣いもある。それなのにSNSなどで流れてくるイメージはやっぱり選び抜かれた場面ばかりなんだ。不思議だけど。いや、それとも当然なのかな…。ともあれ、この傾向って特定グループだけじゃなく、「可視性」という倫理観全体までもが静かに変貌してきてる兆しかもしれない。
社会学者アーヴィング・ゴフマンによれば、人間同士のやり取りは一種のパフォーマンスになる場合が多いとのことだった。「表舞台」と「裏舞台」の概念——もう聞き飽きた人も多いかな? 表舞台では公的承認や評価を得ようとして振る舞い、逆に裏側ではもっと混沌としていて複雑で説明しづらかったりする仕事が進む。本当に不思議な二重構造だよね。そして今、人道支援活動でもこの「表舞台」の部分だけがますます前景化してきている印象を受けざるを得ない。もちろん僕自身も例外じゃない気もする。ほら、最近じゃ支援プロジェクトそのものさえ観衆向けプレゼンっぽく演出され始めたりするでしょう。その瞬間、不意打ちみたいだけど急激に演劇的リズムすら漂わせ始めたりする。そして気付けば、「外国から来た支援者」が主人公役として登場したり…奇妙と言えば奇妙。それともこれも今風なのかな。でもまた本題から離れそうなので、この辺で戻しますね。

誰が主人公か?スラム観光という演出
劇的な舞台設定がよくある。たとえば…いや、やっぱりよく考えると必ずしもそうとは限らないんだけど、だいたい貧困やトラウマの現場が多い気がする。そこには変化の過程が示されていて、ビフォーアフターの写真とか影響について話す証言なんかも並べられる。でもね、この脚本になると支援を受けた当事者の声、それ自体がメインに据えられることは稀で——何となく脇役として他人の物語に溶け込む姿ばかり浮かぶ。あれ?そうじゃない例もあるかなと思ったけど、結局この傾向は強い。
で、こういう流れからスラムツーリズムとか貧困体験プログラムみたいなものが人気を集めたりしてる。うーん、「人生観を変える」っていう宣伝文句まで踊ることもあって、それ自体ちょっと皮肉っぽさすら感じる。でも実際コミュニティそのものにどこまで影響があるかって…測定しづらいよなあ、たぶん誰にも分からない部分が残る。訪問者は困難な状況を直に目撃したり、ごく簡素なシェルターで夜を明かしたり、塩入りのお粥だけ口にしたり——そんな経験まで売り出されている。「貧困」という美学っぽいものさえ学びや感情的気づきの一部になってたりするわけ。
ただ、その取り組み自体によって観察対象になった人々の日常環境――これが劇的に変わるケースはほとんど無いと思われる。ま、いいか。それって別に悪意から始まった話ばかりじゃなくて、本当に純粋な好奇心や関心で足を踏み入れる場合も少なくない。それでもどうしても非対称性というもの……つまり苦しい立場の人々は物語上「権力」の側の自己発見ドラマの背景になっちゃう、その構図は再生産され続けてしまうようだ。この論理構造そのまま援助活動にも反映されて、「助けたい」という動機ですら物語仕立てに組み替えられてしまう危うさも指摘できそう。なんだろうね、この不思議な居心地悪さ――結果として貧困そのもの、一種の舞台装置として扱われちゃうような感覚すら滲む気配だ。
で、こういう流れからスラムツーリズムとか貧困体験プログラムみたいなものが人気を集めたりしてる。うーん、「人生観を変える」っていう宣伝文句まで踊ることもあって、それ自体ちょっと皮肉っぽさすら感じる。でも実際コミュニティそのものにどこまで影響があるかって…測定しづらいよなあ、たぶん誰にも分からない部分が残る。訪問者は困難な状況を直に目撃したり、ごく簡素なシェルターで夜を明かしたり、塩入りのお粥だけ口にしたり——そんな経験まで売り出されている。「貧困」という美学っぽいものさえ学びや感情的気づきの一部になってたりするわけ。
ただ、その取り組み自体によって観察対象になった人々の日常環境――これが劇的に変わるケースはほとんど無いと思われる。ま、いいか。それって別に悪意から始まった話ばかりじゃなくて、本当に純粋な好奇心や関心で足を踏み入れる場合も少なくない。それでもどうしても非対称性というもの……つまり苦しい立場の人々は物語上「権力」の側の自己発見ドラマの背景になっちゃう、その構図は再生産され続けてしまうようだ。この論理構造そのまま援助活動にも反映されて、「助けたい」という動機ですら物語仕立てに組み替えられてしまう危うさも指摘できそう。なんだろうね、この不思議な居心地悪さ――結果として貧困そのもの、一種の舞台装置として扱われちゃうような感覚すら滲む気配だ。
賞賛は善行に比例しない?象徴資本の罠
社会って、本当に全部の善行を同じように見てるのか、と言われれば…うーん、やっぱり違うよな。特に、なんだかドラマチックだったり、大げさな善行ほど、世間の目を集めやすい気がする。普通に考えて、静かに続けてる善意って全然表には現れてこないことが多いし。でもねえ、その違いって本当に行為自体の価値なのかな?いや、実はそうでもなくて…たぶん「どう伝えるか」とか「どう見せるか」が大きかったりする。
ああ、ピエール・ブルデューの話がここで出てくるけど、「象徴資本」っていう概念を提唱した人だったな。簡単にいうと、お金とか法律的身分じゃなく、人として感じ取られる美徳によって得られる名声とか承認みたいなものだよね。その一部として賞があるわけだけど、それによって活動自体に正当性(?)が与えられるケースもあるし。
賞をもらった人には、新しい道や可能性―まあ機会とも呼べるよね―そういうものが開くことも結構ある。でも、それだけじゃなく、「この人のやってることは価値がありますよ」みたいなお墨付きになる場合も多い。こんなふうに書いていると急にコーヒー飲みたくなるが…関係ない話だった、ごめん戻す。
で、同じ人が何度も受賞しているケースについて考えてみた時、それは単純な長年努力した結果なのかもしれない。だけど、一方で物語作りという能力とか、「称賛されたい」組織との関係性みたいなのも無視できない要素っぽい。つまり賞そのもの、中立的とは限らず案外推薦状ぽく扱われたりする。本当、不思議な仕組みだと思わない?
寄付者だったり政府機関、それからNGOとかメディア――色々な利害関係者がそこにはいて、そのネットワークという存在感もちょっと無視できないんだよね…。ま、いいか。また別の機会になんとなく思い出しそうだ。
ああ、ピエール・ブルデューの話がここで出てくるけど、「象徴資本」っていう概念を提唱した人だったな。簡単にいうと、お金とか法律的身分じゃなく、人として感じ取られる美徳によって得られる名声とか承認みたいなものだよね。その一部として賞があるわけだけど、それによって活動自体に正当性(?)が与えられるケースもあるし。
賞をもらった人には、新しい道や可能性―まあ機会とも呼べるよね―そういうものが開くことも結構ある。でも、それだけじゃなく、「この人のやってることは価値がありますよ」みたいなお墨付きになる場合も多い。こんなふうに書いていると急にコーヒー飲みたくなるが…関係ない話だった、ごめん戻す。
で、同じ人が何度も受賞しているケースについて考えてみた時、それは単純な長年努力した結果なのかもしれない。だけど、一方で物語作りという能力とか、「称賛されたい」組織との関係性みたいなのも無視できない要素っぽい。つまり賞そのもの、中立的とは限らず案外推薦状ぽく扱われたりする。本当、不思議な仕組みだと思わない?
寄付者だったり政府機関、それからNGOとかメディア――色々な利害関係者がそこにはいて、そのネットワークという存在感もちょっと無視できないんだよね…。ま、いいか。また別の機会になんとなく思い出しそうだ。

援助者も機関も高まる評価、その正体
賞を受け取る側が称賛されることはもちろんだけど、それと同時に、その賞を授与する団体や機関自体も評価の対象になっていくんだよね。ああ、なんか変な感じがする時もある。でもそれって、根本的に悪いこととは限らないとも思う。たぶん。ただ、賞というものが頻繁に授与されて、当たり前みたいになってしまうと――いや、ちょっと待った。今朝コンビニで買ったコーヒー冷めてたな……まあそれはさておき、その場合支援の行為自体がパフォーマンスっぽく見えるリスクが高まる気がしてならないんだ。援助する側はブランド化し始めて、「組織」という存在そのものも物語性とか価値を帯びた商品みたいになっちゃうし。不思議だけど現実として活動そのものは確かに行われているわけで。ただ、その意味とか価値みたいな部分については、いつの間にかスペクタクル的論理で読み解かれやすくなっているようにも感じたり…うーん、不安定。
## 帝国の残像
援助という営為には非対称性がつきまとうけれど、それ自体は新しい現象でも何でもなくてね。実際には昔から連綿と続いてきた構造なんだと思う。本当にそうなのかな、と疑いたくなる瞬間もあるけれど。それこそ植民地支配なんかから派生した複雑なパターンをどうしても想起せざるを得ないし、多くのポストコロニアル社会では「与える」という単純な行為さえ征服の記憶と不可分だったりして難儀だよね。「文明化」の名目で展開されたミッションはいまや「救済」とか「引き上げ」あるいは「エンパワーメント」など別様の言葉へ置換されていたり…あ、昨日読んだ記事にも似たような話題出ていた気がする。でも表現や用語こそ変われど、本質的な構造まで切断できているケースばかりじゃない、と感じざるを得ない場面によく遭遇するわけです。エドワード・サイードによれば、「オリエンタリズム的視線」つまり他者を見る特有の眼差しについて述べられていて、人々自身を興味本位や懸念だけで矮小化してしまう危険性も孕む、と指摘されても仕方ない状況なのかなと思ったり…。
## 帝国の残像
援助という営為には非対称性がつきまとうけれど、それ自体は新しい現象でも何でもなくてね。実際には昔から連綿と続いてきた構造なんだと思う。本当にそうなのかな、と疑いたくなる瞬間もあるけれど。それこそ植民地支配なんかから派生した複雑なパターンをどうしても想起せざるを得ないし、多くのポストコロニアル社会では「与える」という単純な行為さえ征服の記憶と不可分だったりして難儀だよね。「文明化」の名目で展開されたミッションはいまや「救済」とか「引き上げ」あるいは「エンパワーメント」など別様の言葉へ置換されていたり…あ、昨日読んだ記事にも似たような話題出ていた気がする。でも表現や用語こそ変われど、本質的な構造まで切断できているケースばかりじゃない、と感じざるを得ない場面によく遭遇するわけです。エドワード・サイードによれば、「オリエンタリズム的視線」つまり他者を見る特有の眼差しについて述べられていて、人々自身を興味本位や懸念だけで矮小化してしまう危険性も孕む、と指摘されても仕方ない状況なのかなと思ったり…。
帝国主義の残り香と現代援助、日本から見た構図
善意から発せられる行為であっても、その視線には、どうしたって権力のかたちが宿るものだ。いや、本当にそうかな…でも現実として、多くの場合、西洋や先進国の支援者が中心となり、現地のコミュニティはどこか周縁に追いやられてしまうんだよね。うーん、貧困について語る場面でも、それはしばしば「彼ら」の話として――つまり当事者と並んで語るというより、「彼らを」語る形になりがちなのだ。不思議といえば不思議。
まあ、「貧困ツーリズム」と呼ばれるものも、この流れと無縁ではないような気がする。一時的に外部の人間が他者の困難に触れる機会を得るけれど、その背後にある事情やその後への影響は、正直ほとんど理解されないまま終わってしまうことが多い。なんていうか…謙虚さとか目的意識みたいなものを胸に帰路につく訪問者。それとは反対に、住民たちはただそこに残り続ける。ああ、頭では分かっているつもりだけれど、自分だったらどう感じるのかな、とふと思ったり。
こういった構造は、日本によるフィリピンへの支援にも独特な複雑さを与えている(いや、本当にややこしい)。一度アジア地域で植民地主義的加害経験を持った日本だけれど、今では開発分野で主導的立場になっている。そのNGOとか財団、ボランティア活動なんかも規律正しさや専門性という観点から評価されたりして…。それでもなお、この種の現場には権力バランスの偏りが潜む可能性が消えない感じだよね。
日本側支援者には移動できたり資源を持てたり、ときには関与も一時的だったりする特徴がある。でもフィリピン側受益者となれば、その立場は固定化されたり依存的・恒常的と見なされてしまいそうで——まあ、このへん本当に引っかかる。また伝えられる物語自体が大抵支援する側から描写されていて、この不均衡感はいっそう際立つ結果になっている気がする。ま、いいか……などと思いつつ、本筋へ戻ろう。
まあ、「貧困ツーリズム」と呼ばれるものも、この流れと無縁ではないような気がする。一時的に外部の人間が他者の困難に触れる機会を得るけれど、その背後にある事情やその後への影響は、正直ほとんど理解されないまま終わってしまうことが多い。なんていうか…謙虚さとか目的意識みたいなものを胸に帰路につく訪問者。それとは反対に、住民たちはただそこに残り続ける。ああ、頭では分かっているつもりだけれど、自分だったらどう感じるのかな、とふと思ったり。
こういった構造は、日本によるフィリピンへの支援にも独特な複雑さを与えている(いや、本当にややこしい)。一度アジア地域で植民地主義的加害経験を持った日本だけれど、今では開発分野で主導的立場になっている。そのNGOとか財団、ボランティア活動なんかも規律正しさや専門性という観点から評価されたりして…。それでもなお、この種の現場には権力バランスの偏りが潜む可能性が消えない感じだよね。
日本側支援者には移動できたり資源を持てたり、ときには関与も一時的だったりする特徴がある。でもフィリピン側受益者となれば、その立場は固定化されたり依存的・恒常的と見なされてしまいそうで——まあ、このへん本当に引っかかる。また伝えられる物語自体が大抵支援する側から描写されていて、この不均衡感はいっそう際立つ結果になっている気がする。ま、いいか……などと思いつつ、本筋へ戻ろう。

与える側・受け取る側、語られぬ非対称性
援助の顔が、なんだかいつの間にか異国のものになっている。いや、気づけば物語の中心も、本来なら支援される側だった人々からどんどん遠ざかっていく。何だろうね、この違和感。ま、いいか。
## 承認と善行の心理学
えっと、人はしばしば「役に立ちたい」という欲求を持つものらしい。心理学者たちはずっと前から、利他主義というものが根っこで深い情動的な欲求を満たす作用を指摘してきた。ああ、それってつまり他者を助けることで、自分なりの目的意識や承認、あるいはアイデンティティみたいなものまで得られることがあるって話だよね。ただ、それ自体は特に問題視されてない…はず。でもさ、「支援したい」気持ちが「助けている自分を見せたい」みたいな欲望と絡まり始めると、途端に倫理的な境界線がぼやけてくるんじゃないかな、と。
マズローは尊厳(esteem)を人間基本欲求の一つとして挙げていた。その中身には自己尊重だけじゃなくて、他者からどう見られているかという部分も含まれる。それで賞賛や表彰によって満たされる場合も実際ある。まあ、自分自身の行為に価値があったと確認できる瞬間は確かに嬉しいし…うーん、でもその喜びがフィードバックループみたいになる可能性もありそうだよね? もっと褒められれば褒められるほど、その評価自体を追い求めちゃう傾向も観察されてきたわけで。その結果として支援活動そのものが徐々に相手側のニーズよりも、「善良な人物」として映り続けたいという自分自身の動機によって揺れ始める現象も想像できなくはない。
ここでふと思った。「救世主コンプレックス」なるものが芽生える余地ってこういう時なのかな、と。ただ…この傾向って白人とか西洋出身者だけに限定された現象じゃないとも聞いたことある。なんとなく不思議だけど、人間みんな似たようなところ持ってるんだろうね、多分。
## 承認と善行の心理学
えっと、人はしばしば「役に立ちたい」という欲求を持つものらしい。心理学者たちはずっと前から、利他主義というものが根っこで深い情動的な欲求を満たす作用を指摘してきた。ああ、それってつまり他者を助けることで、自分なりの目的意識や承認、あるいはアイデンティティみたいなものまで得られることがあるって話だよね。ただ、それ自体は特に問題視されてない…はず。でもさ、「支援したい」気持ちが「助けている自分を見せたい」みたいな欲望と絡まり始めると、途端に倫理的な境界線がぼやけてくるんじゃないかな、と。
マズローは尊厳(esteem)を人間基本欲求の一つとして挙げていた。その中身には自己尊重だけじゃなくて、他者からどう見られているかという部分も含まれる。それで賞賛や表彰によって満たされる場合も実際ある。まあ、自分自身の行為に価値があったと確認できる瞬間は確かに嬉しいし…うーん、でもその喜びがフィードバックループみたいになる可能性もありそうだよね? もっと褒められれば褒められるほど、その評価自体を追い求めちゃう傾向も観察されてきたわけで。その結果として支援活動そのものが徐々に相手側のニーズよりも、「善良な人物」として映り続けたいという自分自身の動機によって揺れ始める現象も想像できなくはない。
ここでふと思った。「救世主コンプレックス」なるものが芽生える余地ってこういう時なのかな、と。ただ…この傾向って白人とか西洋出身者だけに限定された現象じゃないとも聞いたことある。なんとなく不思議だけど、人間みんな似たようなところ持ってるんだろうね、多分。
心理的報酬としての“良い人”イメージ、自己満足へ傾く危うさ
それは、相対的に特権的な立場にある誰にも起こりうる心理のパターンで、ああ、何だろうな……自分が例外だと思っていてもふとした拍子に絡め取られてしまう。援助者という存在は、その傾向によって「自分がいなきゃ何も始まらない」と錯覚することもできるし、不可欠でありたいという願望を満たす手段にもなる気がする。時折、自分こそ唯一無二だと信じ込んでしまったりして。ま、いいか。でも実際には、多くの場合その現場の奥深い構造とか、「そもそもなんでここまで来た?」みたいな問い直しをしないまま、道徳的な優越感を保ててしまうという妙な仕組みになっている。それから与える側はやけに称賛されやすいし、それとは逆に受け取る側には感謝を求める期待が渦巻く。でももし、生き残るための条件として「ありがとう」が必須になるなら、それはもう従属関係のようにも感じられる――いや、本当にそうなのか自分でもわからなくなる瞬間がある。
## 見えない労働者
賞賛されるNGO創設者一人につき、その背後では静かに認知されず活動している何百人もの人々がいる。現地スタッフは官僚的手続きを突破し続けていて、その姿なんてほとんど表には出ないよね。えっと……ボランティアだってそう、目立つことなく日々動いている。傷ついた人や飢えている人、それから迷子になった誰かを世話する家族たちも同じ。一瞬、誰のことを書いていたっけ? ああそうそう。そのほかにもプレスリリースを書くわけでもなく、写真撮影用にポーズなんて決めず、本当にただ淡々と仕事だけして帰る支援者たちもいるんだ。この人たちが賞を受け取れる機会は本当に少なくて、大規模な会議で壇上に上がったりすることなんてほぼ皆無と言っていいくらい。不公平、と感じても言葉にはできない…そんな日々。
## 見えない労働者
賞賛されるNGO創設者一人につき、その背後では静かに認知されず活動している何百人もの人々がいる。現地スタッフは官僚的手続きを突破し続けていて、その姿なんてほとんど表には出ないよね。えっと……ボランティアだってそう、目立つことなく日々動いている。傷ついた人や飢えている人、それから迷子になった誰かを世話する家族たちも同じ。一瞬、誰のことを書いていたっけ? ああそうそう。そのほかにもプレスリリースを書くわけでもなく、写真撮影用にポーズなんて決めず、本当にただ淡々と仕事だけして帰る支援者たちもいるんだ。この人たちが賞を受け取れる機会は本当に少なくて、大規模な会議で壇上に上がったりすることなんてほぼ皆無と言っていいくらい。不公平、と感じても言葉にはできない…そんな日々。

表彰されない隣人たち、静かな連帯の日々
彼らは、象徴なんかじゃないんだよね。ま、隣に住んでる人だったり、親戚だったりするし、ああ、友人でもあったりする。自分自身もいつの間にか「取り組もうとする課題」に影響されて形作られてきたことがあるのかもしれない、とふと思う。でも…うーん、この共感って上っ面だけじゃなくて、本当に体現されている気がする。
貧困層の中で生きるっていうのは、遠くから「支援してます」って言うだけじゃ全然違う体験になる。それに単純な物語にはならない。何というか、複雑だし、その人ごとに事情も違うし、矛盾した感情も混ざってて…。あっ、話がそれたけど、とにかく見せびらかすためじゃなくて、「生きる」という目的のための在り方だからこそ、演出された構造とかには全然なじまないんだ。
苦しみのすぐそばで暮らしている多くの人々はね、実は賞賛されること自体にちょっと疲れることがあるみたい。別にその賞や評価が不当だってわけじゃなくて……いやむしろ、それを受け取る場所やタイミングが肌になじまないというか。「一つの支援行為にも、多くの手が関わっている」——彼らは、それを本当によく知っている。そして、一人だけを持ち上げちゃうと共同体全体が見えづらくなることも十分承知してる。変な話だけど、自分もそういう場面を何度か目撃したような…。でも元に戻ろう。
## 異なる倫理を選ぶ
世界には助け手が必要なのは確か。まぁそれだけじゃなくてさ、組織者とか寄付者とか擁護者、それから介護者とか…いろんな役割を担う人たちも求められているんだよね。
貧困層の中で生きるっていうのは、遠くから「支援してます」って言うだけじゃ全然違う体験になる。それに単純な物語にはならない。何というか、複雑だし、その人ごとに事情も違うし、矛盾した感情も混ざってて…。あっ、話がそれたけど、とにかく見せびらかすためじゃなくて、「生きる」という目的のための在り方だからこそ、演出された構造とかには全然なじまないんだ。
苦しみのすぐそばで暮らしている多くの人々はね、実は賞賛されること自体にちょっと疲れることがあるみたい。別にその賞や評価が不当だってわけじゃなくて……いやむしろ、それを受け取る場所やタイミングが肌になじまないというか。「一つの支援行為にも、多くの手が関わっている」——彼らは、それを本当によく知っている。そして、一人だけを持ち上げちゃうと共同体全体が見えづらくなることも十分承知してる。変な話だけど、自分もそういう場面を何度か目撃したような…。でも元に戻ろう。
## 異なる倫理を選ぶ
世界には助け手が必要なのは確か。まぁそれだけじゃなくてさ、組織者とか寄付者とか擁護者、それから介護者とか…いろんな役割を担う人たちも求められているんだよね。
拍手なき支援、物語にならない持続する優しさ
善いことをしたいって、まあ、普通に思うよね。でもさ、その「どうやって」とか「誰のために」って、ちゃんと考える価値があるんじゃないかな。…あれ、今朝食べたパン何だったっけ。ま、それは置いといて。援助がいつの間にか見世物みたいになるときがあるんだよなあ。そうすると支援する側の話になっちゃって、本来苦しんでる人たちが背景みたいになったりする、不思議だけど実際ありがち。
カリスマ性ばっかり強調されて、献身とか地道な努力よりも前に出てくる瞬間とかさ。あと構造的な問題よりも美談・物語の方が目立つ傾向?そういう雰囲気を感じることもたぶんある。いや、本当にこれでいいのかな、と自問自答したりして…。異なる倫理観だって存在して当然なんだよね。
拍手喝采から始まるわけじゃなくて、多分最初は静かに注意深く観察することから始まるものなんだろうと思う。「目立つ」より、その場にいること自体を大事にするという感覚?えっと…話すより聞くことを重視して、率先して導くというより一緒についていく姿勢が求められる気がする。
この種の支援は映像化しやすいわけでもなく、賞賛されるチャンスも正直少ない場合が多い。それでも、この形こそ長く続きやすいって意見もあるらしい。不思議だけど、それでいいんじゃないかな。記憶されてなくても、その助けを受け取った人には忘れ去られず残り続ける——まあ、それで十分なのかもしれないね。
カリスマ性ばっかり強調されて、献身とか地道な努力よりも前に出てくる瞬間とかさ。あと構造的な問題よりも美談・物語の方が目立つ傾向?そういう雰囲気を感じることもたぶんある。いや、本当にこれでいいのかな、と自問自答したりして…。異なる倫理観だって存在して当然なんだよね。
拍手喝采から始まるわけじゃなくて、多分最初は静かに注意深く観察することから始まるものなんだろうと思う。「目立つ」より、その場にいること自体を大事にするという感覚?えっと…話すより聞くことを重視して、率先して導くというより一緒についていく姿勢が求められる気がする。
この種の支援は映像化しやすいわけでもなく、賞賛されるチャンスも正直少ない場合が多い。それでも、この形こそ長く続きやすいって意見もあるらしい。不思議だけど、それでいいんじゃないかな。記憶されてなくても、その助けを受け取った人には忘れ去られず残り続ける——まあ、それで十分なのかもしれないね。