リベラル層の寛容性に潜む盲点とは?現代社会で議論される課題を読み解く

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最近、ずっと思ってたことがあるんだけど、ちょっとここで吐き出させてほしい。いわゆる「寛容なリベラル」って言われる人たちの、ある種の「不寛容さ」について。正直、これ、味方を増やすどころか、むしろ人を遠ざけてるんじゃないかなって思うんだよね。

念のために言っておくと、僕は別にゴリゴリの保守派ってわけじゃない。どっちかっていうと中道寄り。個人の責任とか、政府はあんまり大きくなりすぎない方がいいとか、そういうのは大事だと思ってる。でも、意見が違う人とも敬意をもって話すべき、っていうのが大前提。

でもね、最近のネットとか見てると、なんか息苦しいんだよ。誰かがちょっとでも「主流」からズレたことを言うと、寄ってたかって叩かれる。まるで思想警察みたいに。うん、正直うんざりする。

【 TL;DR 】「寛容」を掲げる人たちが、一番「不寛容」になってるかもしれないって話

僕が一番引っかかってるのは、この矛盾。不正義とか差別とか、世の中の間違いを正したいっていう情熱は、すごく理解できる。本当に。そこは誰も否定しない。でも、いつの間にか「正義のための戦い」が、「思想の純粋性を守るための粛清」みたいになっちゃってない?

正しい専門用語、正しいハッシュタグ、正しい意見。その「正解」から一歩でも外れたら、もう仲間じゃない、敵だ、みたいな。それって、新しい世界を作るっていうより、ただの排他的なクラブ活動にしか見えないんだよね。

実際にあった、息が詰まるような話

これ、僕の友人の話なんだけど。彼は本当に、どこにでもいる普通の人。中小企業の経営者で、地域のリトルリーグのコーチもやってて、税金もちゃんと払ってる。まあ、絵に描いたような善良な市民って感じ。

その彼が去年、X(旧Twitter)でこう投稿したんだ。「警察の予算を削減したら、うちの近所の治安って悪くなるのかな?」って。これ、純粋な疑問だよね?別に煽ってるわけでもなく、自分の子供たちの安全を心配しての、素朴な問いかけだった。

でも、その反応がすごかった。もう、デジタルリンチだよ。

「差別に加担してる」「無知だ」「レイシストだ」。普段は地域の名士みたいに扱われてる彼が、一瞬で悪者扱い。彼はそのあと、Xだけじゃなくて、ほとんどのSNSをやめちゃった。別に恥ずかしくなったからじゃなくて、ただただ、馬鹿らしくなったから。彼の気持ち、痛いほどわかるよ。それって、寛容さとは真逆の、ただの癇癪だもん。

オンラインで孤立し、非難される感覚の視覚化
オンラインで孤立し、非難される感覚の視覚化

こういう「僕ら vs それ以外」みたいな構図、今やどこにでもある。Xをスクロールしてると、まるで地雷原を歩いてるみたい。ジェンダー代名詞とか、ベーシックインカムとか、そういう話題について少しでも懐疑的なことを言おうものなら、ただ反論されるだけじゃ済まない。「キャンセル」されたり、人格攻撃されたり、「問題のある人物」ってレッテルを貼られたり。

一体いつから、疑問を持つことが罪になったんだろうね?

じゃあ、なんでこうなっちゃうの?

「多様性」って言葉をあれだけ使うのに、思考の多様性にはあんまり興味がないように見える。まるで台本があって、そのセリフ通りに話さない役者は舞台から降ろされちゃう、みたいな。

これ、たぶん恐怖心から来てる部分もあると思うんだ。気候変動、構造的差別、経済の崩壊…解決すべき問題は山積みで、とにかくステークスが高い。だから、どんな小さな間違いも、ミッション全体を頓挫させるリスクに見えちゃうんだろうね。世界が大変なのは、僕もわかる。

でも、「自分たちだけが歴史の正しい側にいる」って確信しすぎると、異論が「裏切り」に見えてくる。そこにソーシャルメディアのエコーチェンバーが加わると、もう最悪。いいねやリツイートが、一番声が大きくて、一番怒りに満ちた意見に報酬を与えるから、集団思考がどんどん加速していく。

その結果が、健全な議論と、ただの思想チェックの混同だ。個人的には、この二つは全く違うと思ってる。

健全な議論 思想チェック
目的 より良い答えを見つけること、かな。お互いにとっての。 敵と味方を区別すること。で、見つけたら敵を排除する。
意見が違う人 「なるほど、そういう視点もあるのか」って学ぶ対象。新しい発見があるかも。 正すべき「間違い」か、叩き出すべき「敵」。それ以外はない。
使う言葉 「なぜそう思うの?」「こういうデータもあるけど、どうかな?」とか、問いかける感じ。 「それは間違ってる」「勉強不足」「ありえない」みたいな断定的な言葉。レッテル貼りも多い。
終わった後の感覚 たとえ意見は違っても、なんかスッキリする。ちょっと賢くなった気もするし。 勝ったか負けたか。大抵はどっちも疲れてるだけ。何も生み出さない。

でも、昔は違ったんじゃない?

そもそも、リベラルって権力に疑問を投げかけるのが持ち味だったはず。でも、時々彼ら自身が権力みたいに振る舞って、それをためらわずに使っているように見えるんだよね。

この現象、特にアメリカのネット空間で顕著な気がする。いわゆる「キャンセルカルチャー」ってやつだ。原文の記事も、そういうアメリカの状況を背景にして書かれてる。政治的な対立軸がすごくはっきりしてるから、こういう思想の純粋性を問う動きも過激になりやすいのかも。

じゃあ日本ではどうかっていうと、政治的な文脈での対立の形は少し違うかもしれない。でも、似たようなことは起きている。例えば、特定の趣味のコミュニティとか、アイドルのファンの「界隈」とかでさ。ちょっとでも「公式見解」と違う解釈をしたり、ルールから外れた言動をしたりすると、「警察」みたいな人たちが出てきて、徹底的に叩かれる。あれって、構造的にはすごく似てると思うんだ。守るべき「正しさ」があって、そこから外れる人間は異物として排除される。政治の話じゃなくても、僕らの周りにもこういう「息苦しさ」って潜んでるよね。

エコーチェンバー現象の概念図
エコーチェンバー現象の概念図

僕が個人的に一番イラっとするのは、その偽善性なんだ。共感とか思いやりを説くのに、意見が違う相手にはそれを全く示さない。弱い立場の人々の声を聞こう、と叫びながら、ちょっとでも足並みを乱した穏健派や、身内さえも黙らせる。それじゃあ、説得力ないよ。

本当の進歩って、もっと面倒で、居心地の悪い会話から生まれるものだってこと、忘れちゃったのかな。

じゃあ、どうすればいいんだろう?

専門家でもない僕が言うのもなんだけど、多分、始まりは「寛容」って言葉の本当の意味を思い出すことなんじゃないかな。

寛容っていうのは、全員に同意することじゃない。そうじゃなくて、たとえ相手が「間違ってる」と心底思っても、その人に発言する権利を認めること。これに尽きると思う。アイデアと戦うのであって、そのアイデアを持ってる個人を燃やしちゃダメなんだよ。

もし本当に多くの人の心をつかみたいなら、あらゆる疑問を「攻撃」だと見なすのをやめるべきだ。懐疑的な人をテーブルに招いて、話を聞いてみる。相手の心を変えることはできないかもしれない。でも、こっちも何かを学べるかもしれないし、相手だってそうかもしれない。

背景の違う二人が、建設的な対話をしている様子
背景の違う二人が、建設的な対話をしている様子

面白いジョークを言ったコメディアンをキャンセルしたり、物議を醸す論文を書いた教授を追い詰めたりしても、それは正義を守ることにはならない。むしろ、正義を窒息させてるだけ。

それは、「自分で考えるな」って言ってるのと同じことだ。それこそ、リベラルが戦うべき相手だったはずの「権威主義」そのものじゃないか。まあ、ブランディングが上手い権威主義、って感じだけど。

正直、このままだと、もったいないなって思うんだよね。掲げてる理想は素晴らしいものが多いのに。犯罪司法制度の改革とか、強大な権力を持つ組織に説明責任を求めるとか、僕だって賛成できることはたくさんある。

でも、この「不寛容さ」は、自分で自分の足を撃ってるようなもの。結局、僕みたいな中道派の人間を失うだけじゃない。彼らがよじ登ろうとしている、その「倫理的な高み」そのものから、滑り落ちていることに気づいてほしい。

あなたの周りではどうですか?こういう「息苦しさ」、感じたことありますか? 特定のコミュニティでも、会社の会議でもいい。よかったらコメントで、あなたの経験を教えてください。

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