リベラル不寛容なSNS時代、左派・多様性と健全議論のバランスを考える

SNS時代に、左派的価値観と多様性を守りつつ健全な議論力が身につくヒント集

  1. 週に1回は自分と違う立場の投稿3件以上に敬意ある返信を試してみよう。

    反対意見にも慣れ、多様な視点への耐性が上がる(7日後、自分の返信履歴で敬語・肯定的表現使用率50%以上かチェック)。

  2. SNSで炎上トピックを見たら、最初の10分はコメントせず状況整理だけやってみて。

    即応より冷静さ優先でムダな衝突を減らせる(翌週、自分から始まったリプライ応酬数0~1件以内なら成功)。

  3. "その考えもアリ"と声に出して毎日1回唱える習慣から始めよう。

    "共感しなくても尊重できる"癖付けになり、人間関係も穏やかになる(14日後、人前発言・SNS投稿で否定語使用回数20%減ったらOK)。

  4. "思想も多様性の一部"という言葉を月2回プロフィールやDMに記載して広めてみよう。

    "賛否=善悪じゃない"意識が自然と周囲にも伝わり誤解防止になる(月末までに同フレーズへのリアクション5件以上あれば効果大)。

リベラル不寛容に悩むときどう考える?

まあ、人によってはあまり好感を持たれない話題かもしれないけど、私はそこまで気にしていません。ここ最近、ずっと心の中から消えなかったので、この際ゆるく書いてみようかなと思いました。えーと、「リベラルの不寛容さ」について、穏健保守寄りとして感じていることです。私自身、極端な右派じゃなくて、割と「保守」の真ん中あたりでしょうかね。個人責任が大事だと思うし、政府権限は必要最小限でいい、それから考え方が違っても基本的なリスペクトは外せない──そんな立場です。でも正直、ここ最近ネットで見かける左派界隈の敵意ある言葉や態度には、何度もモヤッとさせられてしまいます。 たとえばTim WalzがDonald Trumpの「報告された死」に歓喜したみたいな出来事とか(うーん、こういう話題ちょっとヘビーですが)、Rosie O'Donnellがミネソタ州の教会で起きた銃撃事件について誤った情報を拡散した件なんかもありましたし、それ以外にも色んな場面がありますよね。それから、コメディアンが政府の“思想ポリス”的な施策をイジったツイートだけで逮捕されちゃったというエピソードまでありました…こういう流れ、本当に一つ二つに収まらずどこでも見聞きします。ま、とにかく私の雑感なので絶対じゃありませんよ(寝起きなので記憶違いもあるやも)。

最近の左派オンライン過激行動を見分けよう

なんだか最近、「寛容なリベラル」って呼ばれる人たちが、本当に寛容なのかなって疑問に感じる場面がけっこうあるんですよね。正直言うと、ま、いいか、と流したくなるけど、そうもいかない話です。議論になると、その人たちは時折、一つの価値観に妙に固執して、それ以外の意見をあっさり切り捨てるみたいな空気を醸し出すことがありません?自分は別にMAGA帽を振り回すわけでもないし、大声で過激な持論を叫んだことも全然なくて(というか怖くてできない…)、実際左派が目指している理想そのものにも個人的にはまぁ理解や敬意は持っています。でも、その熱量が「道徳的に正しい」という旗印の下で、予想以上の同調圧力になったりとか、「えっ、それ違わなくない?」とすら言いづらい閉塞感みたいなのが生まれちゃう――それはさすがに実体験として困ったことだと思っています。分からなくもない部分ももちろんあって、不公正や差別、不平等……そういう社会問題への関心や情熱が背後にあるからこそ、こうなっちゃう側面も否定できません。ただ、「不寛容のパラドックス」と呼べるような矛盾によって、結果的には彼ら自身の主張とか大事な理念にも何らか悪影響を及ぼしている可能性、自分としては指摘せざるを得ないかなぁと思います。

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同意なしでも敬意を持つ意味を知る方法

現実的な問題を無視しようなんて、別に言うつもりはないんだよね。でも、いつの間にか一部の左派って、昔みたいに公平のため奮闘するというより、「イデオロギー的な純粋性」を絶対化しちゃう集団になっちゃった気がする。最近、その雰囲気ってちょっと宗教的というか…妙なカルトっぽさまで感じる瞬間があったり。正しいバズワードを使わないとか、適当なハッシュタグをシェアしそこねたら、それだけで「意見の違い」じゃなく敵扱いされちゃうことも珍しくない。ほんと、複雑さがぐんと増す局面だと思うよ。この手の話、中道寄りな考え方で有名な知人にも実際起きたことだったから…。その男性は小規模事業者でありながら、リトルリーグチームではコーチも資金援助もやってるし、納税その他ふつうの責任感もしっかり持っている人。まあ、ごく日常生活者タイプかな。昨年彼はX(旧Twitter)で「警察予算削減(defunding the police)が自分たちの街だと犯罪増加につながったりするんだろうか?」って呟いてみただけなんだ。ただ、それは挑発したかったとかじゃ全然なくて、自分自身の子どもの安全を純粋に案じていたから出た問いだったんだよね。ま、いいか。

健全な問いが炎上する理由は何か学ぶ

デジタル時代特有の“私刑”って、こういう感じなのかな。彼に対しては「共犯者」や「何も知らないヤツ」「レイシスト」といったラベルが飛び交いました。まさかの袋叩きです。彼って、普段はうちのコミュニティを支える要(かなめ)みたいな存在なんですよ。でもね、ただ思っていることを素直に口にしただけで突然悪役みたいにされちゃって……本当に困っちゃうね。それで彼はXをやめちゃったし、実際はどんなSNSも全部離れてしまいました。別に恥ずかしかったわけじゃなくて、「もう無理」と嫌気が差したからでしょう。なんとなくですが、私にはその気持ち分かるような気がしますよ。ただ、これは寛容とか言えないよね――むしろ、まるで子供じみた癇癪としか言えないと思います。この手の「我々」vs「彼ら」みたいな雰囲気、最近どこ見ても広がってる印象あるし……。ま、いいか。

健全な問いが炎上する理由は何か学ぶ

ソーシャルメディアで自由な意見交換を守るコツ

X(旧Twitter)をぼーっと眺めてると、正直どこか地雷原に足を踏み入れた気分になる。何気なくジェンダープロナウンとかベーシックインカムについて軽く疑問を投げただけでも、反対意見が返ってくるだけじゃ済まず、キャンセルされたり、「恥だ」みたいに晒されたり、ときには「この人は危ない」とまで貼られてしまうのだ。いや、本当に不思議……いつから“質問するだけ”で罰ゲーム扱いなんだろうね? まあ、左派は「多様性」が好きと言いつつも、どうやら思想の多様性についてはそこまで許容的じゃない雰囲気が強い。それこそ既定路線っぽい筋書きからちょっと外れただけで、そのコミュニティ(或いは身内クラブ)から自然と除外されちゃうような。いやぁ、不満というより単純にこの現象って奇異に感じちゃう。べつに僕自身が保守だから騒ぐわけじゃなくてさ。ま、いいか。

多様性とは思想も含むことを忘れないために

うーん、これは一つの流れかなって思います。最近、SNSがさ、あんまり深く考えずに人を断定したり責めたりできちゃう場になってる気がしてる人、多いですよね。正直、「寛容な左派」みたいな人たちが素早く怒りを爆発させるのを見ると、逆にみんなを遠ざけちゃったりしてて、共感や応援は得られてない印象もあるんですよ。自分の周囲にもリベラル寄りの友達いるけど、その彼らですらいつもグループ内で超気をつかってる感じがしてます。一度だけポロッと変なこと言っちゃったとか、“違う”意見っぽい発言すると、それだけで居場所失う場合すらあり得ますしね……いやはや。それじゃ本当により良い社会とか夢物語かな、と時々思っちゃいます。

たぶんその裏には、多少の「怖さ」も作用してそうだと思うんです。左派層って、気候変動とか構造的なレイシズムだったり経済崩壊みたいな巨大テーマについて、本気で使命感抱えてて、その運動が失敗した時の損失ヤバイよね…と強く意識しているように見える。それだからこそ、小さなミスすら運動全体へ悪影響になる…という恐怖から厳しく反応しがちなんでしょう。まあこの辺は理解できなくもないです。でも現実問題、この世界はごっちゃごちゃで先行き不明なのは確かだし、「ま、いいか。」という感じも否定できないよね…。

多様性とは思想も含むことを忘れないために

賛否問わず健全な議論を楽しむヒントは?

「歴史の“正義”側にいる――って信じ込むとさ、反対意見をなんかすごく簡単に“裏切り”呼ばわりしちゃいやすくなる気がする。ま、いいか。でも、この頃はソーシャルメディアのエコーチェンバー現象?あれがそれに拍車かけてて、「怒り」を全力で声高に表明した人ほど“いいね”やリツイートでちょっとご褒美みたいなことになること、多いじゃん。それで周囲も思考が似通ってきちゃう感じ、と言えば伝わるかな。まあ、左派って昔は権力への疑念を投げる立場って印象だったんだけど、今となっちゃ逆に自分たち自身が何か権力っぽい存在として振る舞ったり、それどころか積極的にそのパワーを使うのも案外ためらわない人もいるっぽい。それでは、ここからは個人的な体験なんだけど、自分保守系だから進歩的な仲間内では「悪役」扱いされるのも正直もう慣れてる感じ。例えば減税とか普通にいいと思って話したらすぐ「自己中心的だ」なんて決めつけられたり、「伝統大事」なんて思ってても一瞬で「古臭い」だの何だの言われたり…。ただ、別にここでケンカしたい気持ちはゼロ。実際、やっぱモヤッと来るのは偽善だったりしてね。左派側は共感や配慮をよく掲げるものの、その優しさが必ずしも自分たちと考え方違う人には行き届いてない、と個人的には感じる瞬間がわりとある。

善意から独善に変わる左派心理の仕組みとは

彼らはよく「疎外された声を支える」と言ってるんだけど、実際には中道層とか、身内から違う意見が出たときに、その人たちの発言を封じようとするクセも正直あるんだよね。まるで進歩というものは、不協和音やカオスな会話の中からしか生まれない――そんな当然の理(ことわり)をもう忘れてしまったかと思うくらい。みんなが強制的に同調している状態では、何も生まれないのさ。まあ、一応フォローしておくけど、別に左派全部を悪者扱いしたいわけじゃなくてさ。刑事司法の改革とか権力への説明責任みたいな改革には共感できる部分も多いし。でも、不寛容なのは自分たち自身にも足枷になっていると思う。例えばコメディアンが軽口で舞台降ろされたり、教授が波紋を呼ぶ論文を書いただけで叩かれるシーンを見ると、それって本当は正義でもなんでもなくて、ただ黙らせてるだけだよね。つまり、人々の自由な思索まで抑えつけ始めていて、本来なら自分たちが戦う相手だった「管理」の側になりつつある…なんか皮肉っぽいよね。この感じ、「よりクリーンに仕上げ直した権威主義」っぽい雰囲気すら漂うわけで。(あ、ちなみに僕自身マーケターなので、そこそここのへん肌感はある…ま、いいか。)

善意から独善に変わる左派心理の仕組みとは

自身も盲点があるか振り返る方法とは?

さて、解決策って何なのか、私なりに考え始めてみると──結局は「寛容」について左派の人たちがもう一回ちゃんと向き合うことから話が始まる気がします。そもそも寛容というのは、自分と全て意見が一致する相手だけを許す態度じゃなくて、いやむしろ「この人の考えってどうにも同意できないよな」と思ったとしても、その発言自体を排除せず残す姿勢のはずです。これ、大事だよね。一方で議論するのはその「考え」であって、「その人本人」を直接責めたり攻撃したりする意味では全然ありません。もし左派の人たちが、もっと広く共感や支持を集めたいんだよねーと思うなら、「どんな問いや疑いもすぐに攻撃とみなして追い返す」みたいな構えを取っちゃ駄目なんじゃないかなぁと思います。素朴に疑問を持つ人や、ちょっと距離置きたいタイプの意見にも、一応席を用意してみて、その声に耳傾けるべきだろう、と個人的には感じています。「ま、いいか。」自分と立場や意見違ってても、お互い少し学びが生まれる可能性あるしね。そしてもちろん、お相手の考えに目に見える変化が起こらなくても、それだけでも充分有意義だったりするわけで。不完全さでいえば保守側として僕自身まだまだぜんぜん完璧とは言えません……そんな自覚も日々あるしね。

共感と包括性を取り戻す思考プロセス

うーん、自分に盲点があることはたぶん否定できないし、もし誰かから反論されたとしても、それ自体は案外悪くないと思っています。でもね、相手がもう最初っから「お前が悪い」って決めてかかってきた場合、もう話は最初から噛み合わない気がするなあ。ま、いいか。なんていうか、「寛容なリベラル派」こそ、一度じっくり鏡に自分を映して本当にインクルージョンを重んじているのか、それとも単なる身内集団(クリーク)を新しく作って悦に入ってるだけじゃないのか──そう自省してみても損じゃないはず。後者だったら、多分、僕みたいな人間を失うどころじゃなく、自分たちで大事に掲げてる道徳的優位性すら危うくなる気もしてしまいます。 ということで、ここまで読んでくださった方にはちょっとでも共感や面白さが伝わればいいな……どうだったかな?もしピンと来る部分あったら「ストーリー購読」や「拍手(claps)」とか、「Buy Me a Coffee」で応援なんていただけると嬉しいです。本当にいつもありがとう!♥

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