最近、ずっと考えてることなんだけど…。
昔、学校にいた女の子のこと。…いつも眠そうで、制服もなんとなく汚れてて。宿題も、よくやってこなかった。まだ12歳なのに、時々、かすかにお酒の匂いがしたんだよね。
ある日、グループ学習で彼女の家に行った。…父親が、上半身裸で簡易ベッドに寝転がって、台所にいる誰かに怒鳴ってた。お母さんは、うつむいたまま、部屋から部屋へ忙しなく歩き回ってる。その子、プロジェクトの間、ほとんど口を開かなかったな。
その日、学んだことがある。外から見ただけじゃ、その家が「悪い家」かなんて、すぐには分からない。でも、一度その明らかな姿を見てしまうと…もう忘れられない。
先に結論を言うと…免許制度は、たぶん、無理だ
何年も経って、哲学者のヒュー・ラフォレットが提唱した「親の免許制」っていう考え方を知って、ふと、あの子のことを思い出したんだ。理屈は、まあ、シンプルだよね。車の運転に免許がいるなら、人間を育てるっていう、もっと大事なことに何らかの資格が要るっていうのは、筋が通ってるように聞こえる。…最初はね。
でも、すぐに疑問が湧いてきた。誰がルールを作るの?誰がテストをデザインするの?って。それって、また西洋的な子育てのチェックリストになるんじゃないか?…僕がインドで子供時代に知ってたようなことは全部無視されて、それどころか馬鹿にされるような。
それに、もしテストに落ちたり、あるいはテストを受けるのを拒んだりした親から生まれた子は…どうなるんだろう。
善意から来てるのは分かる。子供の将来を心配してるのも。でも、良いアイデアに見えるものが、あっという間に暴力的な現実に変わりうる。
だから、先に結論を言うと…親の適性を測るテストなんて、多分、不可能だし、むしろ危険ですらあると思う。
テストじゃ測れないものがあるんだよ
愛情とか、思いやりとか…そういうのって、点数にできない。知ってる?
僕がアメリカで修士課程にいた頃、養子を迎えたばかりの夫婦に会った。彼らが話す養子縁組のプロセスは、まるで山登りみたいだった。大量の書類、面接、身元調査…。安定した収入、安定した精神状態を証明しなきゃいけない。さらに、その斡旋団体の創設者が決めた、特定の宗教的な教えに沿った子育て哲学に従うことまで求められたって。
その時気づいたんだ。これって、普遍的な「能力」テストなんかじゃない。むしろ、特定の型に自分を合わせられるかどうかの「メンバーシップ」テストなんだって。…もちろん、その型は、誰が作ってるかによるんだけど。
これを、全ての親にやろうとしたら…リスクは何倍にもなる。
貧しい家庭でも、親が持てる限りの愛情と時間を注いで、幸せで、すごく安定した子に育った例を、僕は見てきた。逆に、裕福な家庭の子が、静かな悲劇になるのも見てきた。不安を抱えて、誰にも見てもらえず、「自分は十分じゃない」って思いながら育った子たち。
こういうのを考えると、免許制度とコミュニティ支援って、根本的に違うんだなって思う。
| 評価軸 | 親の免許制度 | コミュニティによる支援 |
|---|---|---|
| 目的 | 「不適格」な親を排除すること。…なんか、選別みたいだよね。 | すべての親が「より良い親」になれるように、土台から支えること。 |
| 測るもの | 知識とか、経済力とか、そういう表面的なもの。チェックリストで測れることだけ。 | 測らない。代わりに、それぞれの家庭に必要なものを一緒に探す感じかな。 |
| 起こりうること | 「合格」したけど心がない親と、「不合格」の烙印を押されたけど必死な親…歪んでない? | 親が孤立から抜け出して、ちょっとずつ自信を持てるようになる…かも。 |
| 根本的な課題 | 愛情や忍耐力みたいな、一番大事なものが測れない。どうしようもない。 | 時間がかかる。お金もかかる。それに、全員を助けられるわけじゃない…。完璧じゃないんだよね。 |
本当の害は、もっと静かで、見えにくい
「悪い親」っていうと、暴力とか、育児放棄とか、路上で怒鳴りつけるとか…そういう派手なのを想像するかもしれない。でも、多くの場合、もっと静かで、じわじわと蝕むようなものなんだ。
僕の友人には、今もセラピーに通ってる人が何人かいる。親に殴られたからじゃない。家が、感情的に安全な場所じゃなかったから。彼らは「男らしくしろ」とか「泣くのをやめろ」って言われ続けて、そのうち、何も感じなくなった。
ある友人の父親は有名な学者だったけど、息子の間違いを正す時にしか注意を払わなかった。別の友人の母親は、「謙虚さが自己肯定感より大事」だって信じ込んでて、息子の成功を一度も祝ってあげなかったらしい。
結局、二人とも、自分の価値を感じられないまま大人になった。
子どもを守るための制度でさえ、的外れなことがある。
例えばアメリカの児童保護サービス[CPS]は、不適格な親から子どもを引き離して、里親に預けることがある。でも、その新しい家で、また別のトラウマを経験することもあるって聞く。…これって、緊急避難的な解決策であって、長期的なものじゃない。ある機能不全を、また別の機能不全と交換してるだけ、みたいな。…難しい問題だよね。
じゃあ、どうすればいいのか?…答えは「管理」より「つながり」かも
妹に最初の子が生まれた時、会いに行ったんだ。彼女も夫も、愛情深くて、いい親だった。でも、その小さな命を抱いてる姿は、完全に途方に暮れて見えた。まだ、おくるみの巻き方すら、おぼつかない感じで。
その時思った。「で、このまま家に連れて帰るだけ…?」って。
もし、産後の数週間、専門の産後ドゥーラみたいな人が一緒にいてくれたら。感情的なサポートや具体的な手助けがあったら、産後のストレスは全然違っただろうな、って。
僕たちは忘れがちだけど、昔は子育てって、共同体…村全体でやるものだったはずなんだ。そういう時代はもう遠い昔で、今は孤立が当たり前になってる。ワンオペ育児なんて言葉もあるくらいだし。だから、声に出せない過ちが、どんどん増えていくのかもしれない。
この点、海外と日本を比べると面白い。アメリカみたいな国は、問題が起きたらCPSみたいな強い権限で介入するけど、それが最善かは議論がある。一方で、日本の厚生労働省は「子育て支援センター」とか、親が孤立しないための場所作りを推奨してる。すごく良い考えだと思う。でも、本当に支援が必要な、声を上げられない人が、そこにアクセスできてるのかなって、時々不安になる。
結局、個人を責めるんじゃなくて、彼らが成功できるようなシステムを作ることの方が、ずっと大事なんじゃないかな。
結局、「本気で気にかける」ことは教えられない
考えれば考えるほど、分かってくる。
子育てって、何か完璧なテクニックをマスターすることじゃないんだ。そうじゃなくて、持続的で、献身的な「ケア」そのものなんだと思う。
システムは助けになるし、トレーニングで備えることもできる。法律は最悪の事態を罰することもできる。でも、何一つとして、意識的に自分の子どもを見て、その子の気持ちを認めて、親であることの重い責任を背負いながら、信頼を保ち続けるっていう行為には、かなわない。
教育で人は変われる。でも、それは変わりたいと思ってる人だけ。赤ん坊が夜中の3時に泣き止まなくて、何日も寝てない時の…あの、ギリギリの忍耐力なんて、教科書じゃ教えられない。
ある父親が言ってた言葉を思い出す。
「本気で気にかけること(giving a damn)は、教えられないんだよ」
シンプルだけど、本当にそう思う。
免許や資格やチェックリストじゃ、その代わりはできない。絶対に。子どもは結局、絶え間ない愛情の中で、一番よく育つんだから。
…なんて、色々と考えちゃったけど。もし、あなたが親をサポートする制度を一つだけ作れるとしたら、それは「免許」ですか?それとも、もっと別の何かですか?もしよかったら、あなたの考えも聞かせてください。
