初めて現代アートに触れる方向け『The Uncarved Girl』の意味と独自性とは

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1930年代の感謝祭向け宣伝写真は、Ann Sheridanの「自然さ」を売るために、Warner Bros.が名前・ラベル・演出を制度化して作ったイメージだった。

写真そのものは、たぶん見たことがある。ナイフを片手、カービングフォークをもう片手。ウィンクしかけ、笑いしかけ。七面鳥に刃を入れる直前の、あの「いい瞬間」。でも、ここで見たいのは七面鳥じゃない。キャンドル、フルーツボウル、首の傾き、視線の角度。そういう“整いすぎ”が、本人の手の外側で組まれていく感じ。そこ。

写真の主役:Ann Sheridanという名前の前に

写真の女性はAnn Sheridanだが、出生名はClara Lou Sheridanで、1915年にDenton, Texasで自動車整備士の娘として生まれた。

ここは事実関係を押さえる。Ann Sheridanは最初からAnnではない。生まれはClara Lou Sheridan。Denton, Texas。1915年。父親は車の整備(car mechanic)。この時点で、すでに「後で売りやすいラベル」とは別の人生がある、というのが見えてしまう。

early 1930s、Paramountのタレントコンテストに送られた写真がきっかけになり、stock contractを得た。そこから数年はbit partsに埋もれる。mid-1930sにはWarner Bros.へ移り、Clara Louという名前は“売りやすさ”の判断で静かに退役し、Annに置き換えられる。こういう改名は当時のstudio systemの中では珍しい話ではない、という含みが原文の語り口にある。ただ、ここでは「改名が起きた」こと自体が核だ。

Warner Bros.の「工場」:contract playerとcheesecake

Warner Bros.の若いcontract playerの生活は華やかというより工業的で、作品と無関係に顔を流通させるcheesecakeのposed publicity photographsが大量に作られた。

本人が後年に認めた(later admitted)という形で、日々は「小さな映画」と「終わらないベルトコンベア」に近かった、と描かれる。tradeがcheesecakeと呼んだもの――要するに、新聞やファン雑誌に顔を出し続けるための、ポーズを決めた宣伝写真。映画の“話題”があるかどうかとは、別のレーンで回る。

この感謝祭の七面鳥写真も、その系統のひとつ。低リスク(about as low-stakes as publicity gets)で、無害に見える。無害に見えるから、仕組みが透ける。そういうタイプの資料だと思う。

概念総覧:宣伝写真・ラベル・「自然さ」の商品化
概念総覧:宣伝写真・ラベル・「自然さ」の商品化

「1937」と「autumn of 1938」:captionが示す日付の揺れ

多くの複製が1937とする一方、残存プリントのcaptionはAngels with Dirty Faces(last week of November 1938のThanksgiving week)と結びつき、年齢表記などからautumn of 1938の撮影を示唆する。

ややこしいので、論点を分ける。まず、現存するプリントの裏にホチキス留めされたcaptionが、この写真をAngels with Dirty Facesの公開に結びつけている。James CagneyとHumphrey Bogartのギャング映画で、Sheridanが出演した作品。公開はNovember 1938、より正確にはlast week of November 1938で、Thanksgiving weekに当たる、とされる。

一方で、インターネット上に流通する多くのコピーは写真を1937と日付けする。ここで原文は、caption内部の細部――Sheridanをtwenty-threeとしている点(彼女がその誕生日を迎えるのはFebruary 1938)や、映画のプレミア前である点――を手がかりに、「実際の撮影はautumn of 1938だったのではないか」とsuggestする。断定ではない。推定のままに置く必要がある。

で、この“数か月〜一年程度のズレ”が、単なる豆知識で終わらない。原文の主張はそこじゃない。ラベルは、後から貼られる。貼った人の都合や記憶で、漂流する(labels drift)。歴史写真の「年」も、固定された真実というより、運用される情報になりうる。小さな点だが、示唆的(A small point, but a telling one)。

1939:Walter Winchellの「umph」からAmerica's Oomph Girlへ

1939年、Warner Bros.のpublicity departmentはWalter Winchellの「umph」発言を起点に演出された競争を作り、Ann SheridanをAmerica's Oomph Girlとして売り出し、語のcopyrightとpersonaへの$100,000のinsurance policyで制度化した。

ここが“ラベルの本番”だと思う。1939年、コラムニストWalter Winchellの「Sheridanにはumphがある」という言葉が、Warner Bros.のpublicity departmentによって、まるごと企画に加工される。審査員パネルまで用意され、そこに写真家George Hurrell、監督Busby Berkeleyが入る。Sheridanが「勝つ」。そしてAmerica's Oomph Girlとして戴冠する。

さらに、studioはその言葉自体をcopyrightし、彼女のpersonaに対して$100,000のinsurance policyをかけた、と書かれている。ここは原文にある表現を維持するしかないが、読み手としては「copyright / trademark」という法的な語感の違いが気になる部分でもある。原文はその揺れを含んだまま、“とにかく制度化して金銭化した”という方向に話を進めている。

Jack Warnerは、そのギミックはsix monthsで忘れられるとreportedly想定した。しかし、結果はキャリアの終わりまで続いた。こういう「軽いノリのはずが定着する」現象、宣伝ではよく起きる。いや、よく起きるという言い方も危ないか。ここでは「このケースでは起きた」だけが確実。

「本人の気持ち」という限定:friends/biographersの描写

friendsやbiographersはAnn Sheridanをdown-to-earthで気取らない人物と述べ、本人はOomphの商売に私的には乗り気でなかったとされる。

ただし、ここも断定しない。原文は「friends and biographers describe」と言っている。彼女は地に足がついていて、気取るのが苦手で、私的にはこの商売全体にenthusiasticではなかった――そう描写される。重要なのは、宣伝が売ったのが“自然体”で、その素材にされたのも“自然体”だった、という構図だ。

つまり、作られたイメージが「作られていないように見えること」に依存している。ここ、変なねじれがある。静かなねじれ。

Taoistの枠組み:Laozi、Tao Te Ching、naming、pu

LaoziはTao Te Ching冒頭でnamingの限界を警告し、Taoistはpu(uncarved block)を、削られる前の全体性として捉える。

roughly two and a half thousand years前、LaoziがTao Te Chingで投げた警告がここに接続される。「名付けられた瞬間、手元にあるのは“もの”ではなく“名前”だ」という趣旨。名は流動していたものを固定する。動いていたものを、カードに留める。蝶の標本みたいに。ここは原文の比喩が強い。

そしてpu。uncarved block。まだ匙にも椅子にも商品にもなっていない、削られる前の塊。Taoistの直感として、削ることは有用さを生む一方で、全体性(wholeness)を壊す。便利になる代わりに、戻れない。そういう見取り図だ。

で、Warner Bros.はClara Lou SheridanをAnn Sheridanに“削り”、さらにAnn SheridanをOomph Girlに“削る”。各カットは「改善」として売られる。ここまでは、映画史の一般論に寄せず、原文の語りに留まる。

核心機制:pu(uncarved block)→ naming → 商品化
核心機制:pu(uncarved block)→ naming → 商品化

「wu wei」を売るための逆方向:rigged contest・trademark・insurance

商業的魅力の中核はunmanufacturedに見える自然さで、原文はそれをwu weiと呼び、rigged contestやtrademark/copyright、insuranceで“非作為”を演出した逆説を指摘する。

この文章の面白さは、単に「スタジオがイメージを作った」では終わらないところにある。作った“材料”が、非加工に見えること。気取らない、素朴、テキサスの人で、偉そうにしない。そういう“自然さ”が、商売の核になる。

原文はここを古典中国哲学の語彙に寄せて、wu wei(無為)――不作為、作為のなさ、無理のない自然さ――を売っていた、と言う。ただ、その売り方は真逆だ。rigged contest、trademarkの申請(あるいはcopyrightと表現される手続き)、insurance underwriter。つまり制度と演出の塊で、自然さを流通させる。矛盾というより、構造的な皮肉だ。

さらに、偽という字の話が出る。偽は「人」+「する/行う」によって成り立つ、として、artificeは“人が演じること”だ、というetymologicalな皮肉(nice bit of etymological irony)。ここも原文の主張として保持する。厳密な字源学の正否を外部で検証する話に持ち込まず、文章が置いた意味作用だけを残す。

Warner Bros.は「演じないことの演技」から利益を得た。そういう言い方になる。

Zhuangzi:butterfly dreamとtreeの寓話/有用性の両刃

Zhuangziのbutterfly dreamは自己同一性の揺れを示し、treeの寓話は有用なものほど伐られると語る;Oomph labelはSheridanに交渉力を与えつつ役柄を拘束した。

Zhuangziの話が入ってくる。目覚めた後、自分が「蝶の夢を見た人」なのか「人の夢を見ている蝶」なのか分からなくなる、あれ。ここで問われるのは、広告やパッケージにoomphが刷られ、タバコの箱や車の広告にまで回った時点で、どちらが“本物”なのか、という問題になる。Denton, Texasの整備士の娘か、名前の上に作られた商業的な幻か。

原文はSheridanがその問いをapparently最後まで解けなかった、と置く。さらに「その立場なら誰でもそうではないか」という推測も添える(not obvious anyone in her position could have)。ここも推測のまま。

もう一つ、木の寓話。まっすぐで役に立つ木ほど先に伐られる。ねじれて役に立たない木は、役に立たないがゆえに生き残る。有用性が生存を削る、という刃の向き。

Oomph labelはSheridanに実利を与えた。better scripts、better pay、自分のstudioに対して強い手(a stronger hand)。でも同時に、その実利が作られた役柄――ラベルに沿った役――へと彼女を囲い込む。数年単位で。usefulness cuts both ways。Zhuangziが言いたかったのは、多分そういうことだ、と原文は運ぶ。

「The Knife Goes Down」:写真は無害でも、仕組みは残る

原文はこの写真をsinisterとはせず、ただ「人を名に彫り、名を保険で守り、authenticityとして売る」機構はstudio system後も残り、現代のソーシャルメディアにも連続すると述べる。

ここでトーンを落とすのが大事。原文は、写真を不気味だとは言わない(None of this makes the photograph sinister)。若い女優が、スタジオ支給の七面鳥の前で笑う。宣伝としては低リスク。問題は、下で動く機構のほうだ。

人を切り出して名前にする。名前を保険で守る。名前を「本物らしさ(authenticity)」として売り戻す。そういう仕組みは、studio systemと一緒に引退していない、という主張が置かれる。今は、見られることが仕事の人が、いかにも「気にしてません」みたいな写真を投稿する。そこにも同じ構造がある、と。

そして最後の一刺し。今はみんな自分でナイフを持てる。つまり、外部の手だけではなく、自分の手で自分を彫れる。自由でもあるし、逃げ場が減る感じもある。静かに重い。

終章とボイラープレート:Pen With PaperとSNS案内

末尾には、Pen With Paperの告知としてInstagram・X・Facebookでのフォローや、タグ付け・プロモーション・コラボへの言及が付されている。

原文の「Class Dismissed」は、本文の考察とは別枠の案内文に近い。内容としては、Pen With Paperという出版(publication)に関する告知で、Instagram、X、Facebookでの公式ソーシャルのフォローや、mention / tag、プロモーションやコラボレーションへの呼びかけが並ぶ。ここは論旨の延長ではなく、媒体の定型文として分けて読んだほうが混乱が少ない。

補足イメージ:ラベルと本人の距離
補足イメージ:ラベルと本人の距離

結論として原文が残すのは、単純な糾弾ではなく、ラベルが利益と拘束を同時に運ぶ、という観察だ。写真の刃が下りる瞬間より、その後も続く「名付け」と「売買」の手つきが、じわじわ残る。

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