最近、新しい職場でふと思ったんだけどさ。誰も私のことを見て眉をひそめたり、私のあり方をいちいち「正そう」としたり、まるで解決すべき「問題」みたいに扱ったりしないんだよね。クィアで、見た目にもトランスジェンダーだとわかる私に対して、みんな、ただの「同僚の女性」として接してくれる。…もし内心何か思うところがあったとしても、それをわざわざ表に出さないでいてくれる、まあ、それくらいの分別は持ってくれてる。
何年もの間、生き残るっていうのは、ただひたすら歯を食いしばって、自分の意志の力だけで耐え抜くことだと思ってた。でもね、どんなに内面の強さがあっても、周りの人たちに少しずつ心を削られていく環境には、勝てないんだよ。私の人生を変えたのは、何か劇的な気づきとか、反抗的な行動じゃなかった。
本当に、ただこれだけだった。私を、ただ私として受け入れてくれる人たちの中にいること。
先說結論
耐える力だけじゃなくて、誰と時間を過ごすかっていう、その環境そのものがマジで大事なんだなって。有毒な空気の中にいたら、どんなに強い人でも息ができなくなる。だから、自分を守るために、自分が呼吸できる場所を意識的に選ぶことが、実は最強のサバイバル術だったりする。
「見えない棘」だらけだった過去
今の職場は、まあ、完璧じゃないにしても、その前の職場とは天と地ほどの差がある。前のところは、私がトランスジェンダーだとカミングアウトされた瞬間から、空気が一変した。別に、あからさまに敵意をむき出しにされたわけじゃない。もっと静かで、陰湿なやり方。まるで、じわじわと無数の小さな切り傷をつけられていくような、そんな感じ。
聞こえるか聞こえないかの距離で言われる冗談とか、わざと性別を間違えて呼ぶこと。それも、なんていうか、わざとらしさを強調するような言い方でね。「彼女」って言うべきところを、妙に間を置いて「か・れ・は」みたいに。存在することは許されてるけど、そこに「属する」ことは許されない。そういう無言のメッセージが常にあった。お前みたいな人間は、自分らしくいる権利なんてないんだよって、言われてるみたいで。
そのプレッシャーは家に帰っても続いた。元パートナーとは、子育てのパートナーとして同居を続けてたけど、彼女は私の変化を受け入れられなくて、ことあるごとにそれを突きつけてきた。
それから、家族も。私は彼らとの関係を必死で繋ぎ止めようとしたけど、彼らが執着するのは、彼らが知っている過去の私。つまり「ダン」であって、今の私じゃない。彼らにとって、今の私を認めることは、知っていたはずの人間を失うことのように感じられたんだろうね。でも私にとっては、彼らが現実を拒絶することが、また一つ、私の存在を静かに消していく行為だった。
正直、たまに性別を間違えられるくらいなら、笑って流せる。でも、それが四六時中、あらゆる方向から絶え間なく浴びせられると、どんなに強い防御壁もすり減っていく。もともと社交的な方じゃなかったけど、どんどん内にこもるようになって、人と直接会うのを避けるようになった。ADHDの症状は悪化するし、不安はどんどん大きくなって、普通に機能するのも難しくなっていった。いっそ全てを終わらせてしまえば、このプレッシャーから解放されるんじゃないかって、そんな考えが頭をよぎることさえあった。
で、ようやく今の環境みたいに、私を「普通の人」として扱ってくれる人たちの中に身を置いた時、初めて前の環境がどれだけ有毒だったかを理解した。きれいな空気を吸うまで、自分がどれだけ汚れた空気を吸っていたかなんて、気づけないもんだよね。
ただ「普通」でいられることの価値
私の夢は、すごくシンプルだった。どこかに「居場所がある」と感じること。トランス女性として公の場で過ごすようになってからずっと、私が一番渇望していたのは、ただの「一人の女性」として見られることだった。私のトランスジェンダーという側面が、いちいち人間関係の中心に来ない世界。だって、誰だっていろんな側面を持ってるじゃない?長所も短所も、変な癖も。誰も一つのラベルに押し込められるべきじゃない。
でも、そこから逃れられなかった。身長、顔つき、声、骨格…全部が、望んでもいないのに私を「目立たせて」しまう。ずっと、人は私のそういう部分しか見ないんだろうなって思ってた。
でも、ある日突然、そうじゃなくなったんだ。
今の職場では、誰も私のことを特別扱いしない。私は「あのトランスジェンダーの人」でも「スカートを履いた男」でもない。ただ、あのクライアントの案件をうまく捌ける人、とか、いつも同じ古い水筒でランチを持参する人、とか、オンライン会議でミュートし忘れる人、でしかない。これって、みんなが大きなジェスチャーで私を肯定してくれるとか、周りが全員アライ(味方)だとか、そういうことじゃない。ただ、彼らは私の存在を「問題」にしない。それだけなんだ。
この「中立性」には、静かだけど、ものすごくラディカルな力がある。部屋に入るときに、身構えなくていい。雑談をするときに、言葉の裏に隠された棘を探さなくていい。要するに、「普通」に扱われること。オフィスの外の世界は、まだ敵意に満ちているかもしれないけど、少なくとも、そうじゃない空間が一つでもある。それだけで、救われる。
どんな環境が自分を守ってくれる?
じゃあ、具体的にどんな環境が良くて、どんな環境がヤバいのか。ちょっと整理してみた。これ、別にLGBTQ+に限った話じゃないと思うんだよね。
| 環境の種類 | どんな感じ? | 心への影響 |
|---|---|---|
| 有毒な環境 (Toxic) | 常にジャッジされてる感じ。小さなトゲが無数にある。存在自体を「間違い」とか「迷惑」みたいに扱われる。 | マジで削られる。自己肯定感がゼロになる。常に不安で、リラックスできない。 |
| 中立な環境 (Neutral) | 存在を「問題」にされない。良くも悪くも無関心。空気みたいな感じ。でも、人としての尊厳は守られる。 | 息ができる。安心感がある。これで十分すぎる時がある。エネルギーを消耗しないから、他のことに集中できる。 |
| 支援的な環境 (Supportive) | 積極的に肯定してくれる。「アライ」であることを公言してくれる人がいる。すごく心強い。 | 最高に嬉しい。でも、たまにそれがプレッシャーになったり、「良いマイノリティ」でいなきゃって気負うことも…あるかも? |
これって、ただの気持ちの問題だけじゃないんだよね。海外だと、例えば国連が「LGBTIに関する企業行動基準」っていうのを出していて、企業が差別とどう向き合うべきかを示してる。もっと身近な話で言うと、日本でも厚生労働省のガイドラインで、SOGIハラスメント(性的指向や性自認に関する嫌がらせ)はパワハラの一種だって明確にされてる。つまり、個人を尊重しない有毒な環境は、社会的に「アウト」なんだよ。
じゃあ、どうやって自分の環境を守る?
時間をかけてわかってきたのは、居場所っていうのは「完璧な人たち」を見つけることじゃないってこと。そうじゃなくて、ほんの些細なことでも、自分の人生を少しでも軽くしてくれる人に気づくこと。あなたの自己肯定感を削ってこない人、あなたが彼らの機嫌をとるために自分を縮こまらせる必要がない人たちと、意図的に時間を過ごすことなんだ。
それは、家族とか、古い友人とか、同僚とか…「義務感」で繋がっている関係を手放すことかもしれない。あるいは、直接会うと消耗する相手とは、オンラインでのやり取りをメインにするとか、そういう集まりはスキップするとか。
これって、別にドラマチックな絶縁宣言とかじゃなくて、自分の心を守るための、静かな自己防衛なんだよね。小さな変化でいい。あなたを「普通の人」として見てくれるたった一人の人を優先するとか、あなたが息をできる場所を一つ確保するとか。その小さな一歩が、人生全体に良い影響を及ぼしていく。
自分の周りの環境を「キュレーション」する。それは目立たない、静かなサバイバル術だけど、同時に、自分の力を取り戻す行為でもある。良い環境は、あなたを支えるだけじゃない。あなたが自分自身を正当化する必要なんてないんだって、思い出させてくれるんだ。
「選んだ家族」だけが答えじゃない
そういえば、LGBTQ+のスペースに顔を出すようになってから、「選んだ家族 [chosen family]」っていう言葉をよく耳にした。クィアであることの困難に対する、究極の解決策みたいに語られることもあるよね。確かに、受け入れてくれて、肯定してくれる人たちと一緒にいる喜びは、計り知れない。たった一人か二人、そういう繋がりがあるだけで人生は変わるし、逃げ場のない敵地で立ち往生している時には、文字通りの命綱になる。
でもね、それだけが全てじゃない。時には、あなたの存在を問題にしない人たちに囲まれている、それだけで十分なこともある。彼らはアライじゃないかもしれない。あなたに同意さえしていないかもしれない。でも、わざわざあなたを惨めな気持ちにさせようとはしないし、考え方が違っても、他者に敬意を払うくらいの品位は持っている。
その静かな一貫性、表面的にはすごく地味で、当たり前に見えるかもしれないけど、そういうものが一番、私たちを持続させてくれるんだと思う。
完璧な世界なんていらない。大げさなジェスチャーも、無限に広がるアライの輪も、別にいらない。私が必要なのは、そして、全てを変えてくれるのは、身構えずに、防御せずに、自分を説明せずに存在できる場所が、少なくとも一つあること。私の存在が解決すべき問題じゃなくて、私のアイデンティティが見世物じゃない、そんな場所。
そういう場所を見つけたことで、私はすごく大事なことを学んだ。生き残るっていうのは、内面の強さだけの問題じゃない。私たちが誰と時間を過ごし、どんな環境に身を置くか。ほんの小さな良識、静かな中立性でさえ、深く、深く、命を育んでくれるんだなって。本気でそう思う。
たぶん、私たちが自分自身に与えられる最高の贈り物は、ありのままの自分でいることを許してくれる人たちのそばにいる、という選択をすることなのかもしれない。
…なんて、色々考えてみたけど、どうだろう。あなたにとって「息ができる場所」って、どんなところですか?もしよかったら、コメントで教えてください。
